たーまん世界を歩く

ただただ忙しく過ぎていく社会人生活に、漠然とした焦燥感を覚え、昨年秋に一念発起して退職しました。
そして半年間、寝る間を惜しんでリゾートホテルの住み込みバイトで貯金し、2019年6月1日、関空から出発。
目的は、これまでの人生で知らなかったことを見聞きすること。世界見聞家・たーまんの誕生です!
カタコトの英語と予算約100万円での旅はYouTubeでも配信中ですが、映像に入れられなかったことを
こちらのブログで紹介していきます。たーまんの珍道中、応援よろしくお願いします!

Vol.127

帰国編

【帰国!!たーまん世界を歩く!!!!】

日本に帰る。
そう決めたことを監禁生活を共に過ごした宿の従業員、エロイザに話したら猛反対された。

「ウイルスが流行ってる日本に帰るなんて死にに行くようなものだ!」

とまで言われたが、万が一ウイルスに感染したことを考えても、収入を増やす面でも、これからの再スタートのためにも、我々の決意は変わらなかった。

エロイザは送り出す最後の朝、いつものように卵焼きとジュースと、忘れずにガッチガチに硬いパンを用意して、泣いてくれた。
あこちゃんも号泣。

彼女がいなければ、そもそも我々は宿でこの1ヶ月、生活することもできなかった。
毎朝朝食を用意してくれた彼女に心の底から感謝だ。

ガッチガチパンも食べ納めである。
この日もバリバリと音を立てながら頂いた。

さて出発!

まずはチャーターしたマイクロバスでアンデス山脈を越え、首都のリマに向かう。
バキバキにヒビが入っているフロントガラスに一抹の不安を覚えつつ、我々はバスに乗り込んだ。

バスは1ヶ月の時を過ごしたプカルパの街を進む。

僕らを受け入れてくれてありがとうプカルパ。
大好きな街の一つになったよ。

帰国

街を15分ほど進むと、もうバスは街の出口。
警察による許可証の確認が行われる。
本来は食料を運ぶトラックなどしか通れないのだ。

その先では車の消毒作業。

窓を開けていた運転手さんは全身でアルコールを浴びていた。
しかし微動だにもせず受け止め、一切のリアクションなく車を発信させていた。

いやいや、今とんでもないこと起こったよね!?
運転手さんまだビショビショですよね!?

窓開いてるのに躊躇なくアルコールを吹きかける方も、微動だにしない方も、日本人の感覚からは計り知れない。

そこから5分も進むと、もうバスは山の中にいた。

プカルパという街は、思っていた以上に山脈のすぐ麓にある街だったらしい。
平地に広がるジャングルとアンデス山脈に挟まれているのだから、かなり特殊な街である。

今にも落ちるのでは、という場所を何度も乗り越え、

謎の休憩所に寄ったりもしつつ、

気づけばバスは雲よりも高い標高まで辿り着いていた。
アンデス山脈を真昼間にバスで駆け抜けられたのも、良い思い出だ。

それからさらに十数時間。
すっかり暗くなった頃にバスはリマに到着。

翌日には他の地域にいた日本人とも合流し、用意してもらったやけに高いホテルにチェックイン!

もっと安い場所で良いから、費用を抑えて欲しかった!!!
という全員の心の声がフロントホールに響き渡りつつも、久しぶりに浴びるお湯のシャワーやふかふかの布団は本当に気持ちよかった…

特別に空軍基地から出発する飛行機へと向かう途中には、トマティーナで出会ったパパさんと遭遇するサプライズ!
彼はペルーの有名な観光地、クスコに滞在していたそうだ。

空軍基地に連れられた我々は、順番に出国の審査をされる。
NHKでこの様子が報道されると「税金の無駄遣いだ!」と我々はネットで批判されまくることになった。

臨時便はそもそも台湾のだし、必要な費用はみんなで割り勘なので、大使館の人たちは大変だったろうが、政府には全然助けられてないような気分ではあるのだけれども…

臨時便は無事メキシコに到着。ここで通常便に乗り換える。
入国は許されず、移動は乗り換えのためのロビーのみに制限されていた。

メキシコからの飛行機が飛ぶかを心配する人も多かったが、大使館の職員も大勢乗り込む我々の便が、天候以外の原因で欠便する可能性は低いだろう。

つまり、これで本当に終わりなのだ。

思いもよらない形で迎えた最後。
まだまだ行っていない場所は沢山あるけれど、気分は晴れていた。
ここで一つの区切りができて良かった。そんな風に思っていた。

旅の最後の晩餐は、ハンバーガーとビール。

やけに赤い照明に照らされながら食べるハンバーガーは美味しかった。

いよいよ搭乗開始のアナウンスが流れる。

2年前、関西空港から始まった僕の旅が、次に乗り込む飛行機で終わりを迎える。

旅を始める前。
毎日、何か違う気がして、何かが足りなくて、満たされなくて、モヤモヤして、つまらなくて。

勇気を振り絞って会社を辞めて、寝る間も惜しんでバイトして。
地図を見ながら計画を立てて、旅立った後の自分を夢見て。

全ては、この時のためだった。
旅をして過ごした2年間のためだった。

旅を終えた時、何かが変わると思っていた。
旅から帰った自分が、今より幸せであることを信じて行動した。

何度も飛行機に乗って、何度もバスに乗って、何度も船に乗って、何度も移動してきた。
それが夢見た、2年間の僕の生活だった。

この次に乗る飛行機で、それが終わる。

たーまん「どう思う?あこちゃん」
あこちゃん「……。寂しい!」

あこちゃんは答えた。

あこちゃん「でも、最後に良い時間が過ごせたなと思う」

たーまん「うん。俺も寂しいな。」

たーまん「でも、満足やな。」

いつでも満たされなかった自分の口から「満足」という言葉がサラリと出てきたことが意外だった。 

たーまん「この旅は、これで終わりやったんやと思うな」

たーまん「いろんな世界を見て、世界を知って、そうしていくうちに、自分のことも知った気がするな」
あこちゃん「そうだね。」

たーまん「俺はこの旅が、楽しかったな」
あこちゃん「そうだね。」

あこちゃん「よし!帰ったらラーメン食べて、寿司食べよう!」
たーまん「いいね!あと天丼も食べたい!」

あこちゃん「写真撮っとこうよ。最後の移動だから」

たーまん「そうしようか、旅の最後の写真やね」

我々を乗せた飛行機は、日本へと飛び立った。

帰国から3年9ヶ月

あの日メキシコから飛行機に乗って日本に帰国し、それから3年と9ヶ月の時間が過ぎた。

新型コロナウイルスの余韻はまだ残っているものの、もはや街中でマスクをしている人は見かけない。
あんなことになっていたなんてもはや信じられないけれど、プカルパで過ごした日々も、メキシコで食べたハンバーガーの味も、今でも鮮明に覚えている。

あの後帰国した我々は、移動してはいけないウイルスの隔離期間の間、あこちゃんのフィジー留学友達であるゆみさんの家にかくまって頂いた。

自分も感染する恐れがあるのに、空港まで車で迎えに来てくれたゆみさんには今後一生、頭が上がらないだろう。
ゆみさん、ありがとうございます!

そんな生活の中ジャングルの余韻を引きずり、そばに熱帯の植物が欲しくて雑貨屋で400円で買った観葉植物、ガジュマルの「ガジュリオン」は

今やこんなに大きくなった。

根もとの方なんて力強過ぎてまさか同じ植物とは思えない。
3年9ヶ月の歳月を感じさせてくれる。

ゆみさんの家を離れた僕とあこちゃんは、僕の故郷である京都で一緒に暮らし始めた。
日本で本領を発揮するあこちゃんの料理クオリティには驚きの連続であった…

そして出会って1年後、トマティーナの開催日に我々は結婚。
新婚旅行は、無人島でのサバイバルキャンプだった。

たーまん「幸せにするけど、何ができたら幸せ?」

あこちゃん「今度は家族で、もう一度世界旅をできたら幸せかな!」

僕の目標が決まった瞬間だった。

翌年の年明けに東京に引っ越して、帰国から1年後。
長男の唯燦也が誕生。

それから1年4ヶ月後。
次男の碧閃が誕生。

僕たちは家族になった。

寝ている姿を見るだけで、愛おし過ぎて涙が溢れてくる。
まさかそんな存在に出会えるなんて思いもしなかった。

でも全てが順風満帆というわけではなかった。
世界旅を経て、自分でも自覚しないまま、どうやら僕は旅をする前の僕とは少し変わっていた。

少しバージョンが変わったらしい自分では、前まで普通に過ごしていた社会になかなか適合できない。

街中で働く人を見ていると、自分だけ中身は動物なのに、無理して人間のフリをしているように感じることがよくあった。

それでも、変わった自分を貫きたかった。
自分が自分であることこそが、旅を経て僕が得たものだったからだと思う。

東京に来てから、暗中模索しながら職を転々とした。

最初は旅に出る前の僕がしたかったことが全てできるような、貿易会社の執行役員。
はじめは通勤電車にすら乗れなくて、六本木にある会社まで片道1時間の自転車通勤。
ここで自分の変化に気づいた。

次はUber eatsの配送員だ。
毎日必死に自転車を漕ぎながら、家族を守る根性と執念がこの時に身についたと思う。

東京でオリンピックが開催されてオリンピック職員としても働いたし、その後は別の外資系企業で働いた。

今は以前働いていた会社の社長が始めた新しい会社の立ち上げに加わり、2年近くが過ぎた。
いっそ、自分が働きやすい環境を自分で作ってしまおうと思っている。

その間も「家族で世界旅」の目標を叶えるため、新しいことにひたすらチャレンジし続けた。

新しいビジネスを始めようともしたし、士業の資格を取得して事務所を開こうと猛勉強したりもした。
今もまた、新しいチャレンジを続けている。

3ヶ月後。
帰国してからちょうど4年の節目である5月には、仕事を全てリモートに切り替えてフィリピンに移住する予定もある。

より一層、本気で「家族で世界旅」を実現するために必要だと思った決断だ。
この状況を作るのにも、時間がかかった。

色々なことをしているということはそれだけ挫折もしているということで、ひたすらチャレンジし続ける日々には、それ相応の苦しさがある。

特に僕の方向性が定まらなかった間、小さい息子を抱えて不安でたまらなかったと思うけれど、それでもあこちゃんは僕を支え続けてくれた。

帰ってくると温かいご飯を作って待っていてくれて、僕の好物をずっと考えてくれた。
どうすれば僕がリフレッシュできるのかを、ずっと考えて行動してくれた。

それは今もなおずっと続いている。

「サハラ砂漠で寝転がって、星を見ながらビール飲もうよ!」

と声をかけられた日も、

「川のほとりの空き地に、家を作って暮らそう!」

と言い出した日も、

「仕事辞めようよ!Uber eatsでもすればいいじゃん!」

と言ってくれた日も。
どんな時でも僕は彼女に支えられていて、彼女に力をもらっている。

もしもトマティーナに、前夜祭から参加しようと思わなかったら。
乗る電車を間違えなければ。
車掌さんが朝に起こしてくれなければ。

僕は彼女と出会わなかった。
そうすれば僕の旅も、僕の人生も、全く違うものになっていただろう。

彼女と出会えたことは、これまでもこれからも、僕の人生最大の幸運に違いない。

でもそれは、ただの奇跡じゃない。
たまたまなんかじゃない。

旅に出たから。

そこで出会った違和感と向かい合ったから。
悩んで、考えて、自分なりの道を歩んできたから。

そうした行動のひとつひとつが繋がってあこちゃんと出会った。
その後も何かにぶつかる度に悩んで、考えて、僕なりにこの世界を歩んできた。

それこそが僕の旅だった。

そして彼女と2人なら、旅はずっと終わらないと信じられた。
日本への帰国も、歯を食いしばってチャレンジしている今も、全てその延長に過ぎない。

僕らの旅は、まだ全く終わっていない。

順風満帆じゃなくても、暗中模索しようとも、挫折しようとも。この旅を終わらせない。
誰が何と言おうと、どんな困難が訪れようと、歩みを止めない。

もう決めたから、止まらない。

旅に出る前の自分なら、これほどの強さを持てなかっただろう。
一緒に歩むパートナーがいなければ、どこかで心が折れたに違いない。
これまでの旅のひとつひとつが、今の僕を支えてくれている。

全ての道程が必要不可欠だった。
これからも変わらず、そう思い続けられる日々を送ろう。

この世界を受け入れ、新しい自分を知り、支え、支えられて歩みを進めよう。

時には泣いて、時には喜び、心を震わせて歩みを進めよう。

僕が僕であるために。
いつだって心の底から、生きられるように。

「たーまん世界を歩く」 おわり

これにて「たーまん世界を歩く」終了です!
最後まで読んでいただいた方々、ありがとうございます!

そして旅がスタートした当初からこれまでずっと支え続けてくださった、ピースリーピースの皆さまに大変感謝しています。
特に三上さんには旅の前から旅の途中も旅の終わりも、いつでもサポートして頂きました。
自分が行動するために悩み、考えた思考の基礎には、常に三上さんの支えがありました。

掲載開始5話目から、2話にわたり一人の男がうんこを漏らすエピソードが掲載されるという、ひどい内容もあった「たーまん世界を歩く」でしたが…

掲載して頂いたことに沢山の意味が生まれるよう精進いたしますので、今後も何卒よろしくお願い致します。

それでは、

ありがとうございました!!!!